クスサン――雲隠れした白髪太郎(むしたちの日曜日66) | 2017-07-13 |
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●プチ生物研究家、ときどき児童文学者 谷本雄治 |
このごろはどこに行っても、きれいな標準語が耳に入る。さすがに情報化社会だわい、と感心するが、その一方で温かみのある方言の消えていくのがさびしい。情報の伝達力がいまほどなかった時代には、まったく同じものがまるで別物であるかのようにいわれたものである。 なにしろだれもが、自分で口にしたものこそ唯一の名前であると信じ切っている。そこで誤解が生じることもあったが、話をして同じもの、同じことだとわかれば双方、なるほどねえと、納得したものである。それによってほほえましいエピソードが生まれれば、それをネタにまた、場が和んだ。 「そんなことないさ」と言える人たちは幸せだ。ゴーヤー(ニガウリ)やウルイ(オオバギボウシ)、コゴミ(クサソテツ)など一部の野菜や山莱の名前はたしかに、方言がよく知られるようになった。だが、それらは例外だ。市場を通じて大規模流通させるために言いやすい語が採用された結果である。     昆虫はどうか。カジワラ、サネモリと言っても、「なるほど。あの虫のことだな」とうなずく人は少ない。よほどの歴史好きでもなければ、いにしえの武将と虫をすぐさま結びつけることはないだろう。  
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それこそ地域限定の呼び名だったという注釈付きの話になるが、源頼朝挙兵の地とされる石橋山の戦いで頼朝を救った梶原景時を語源とする説もあるカジワラはクワガタムシ、稲株につまづいたばかりに討たれてしまった平家の侍大将・斎藤実盛が亡霊となって田んぼに現れては稲を害するという言い伝えから、サネモリは水稲の害虫を指す。そこから生まれたのがサネモリ信仰に基づく「虫送り」で、害虫を寄せ付けず豊作を祈願する行事になって、いまに伝わる。その害虫の代表はウンカだという。 ウンカだから、「うん、そうか」などと言っていては、シャレにもならぬ。植物では平敦盛にちなんだアツモリソウ、熊谷直実のクマガイソウがよく知られ、魚にだってアツモリウオ、クマガイウオがいる。     それに比べると虫はまるで虫けら扱いされたように思う向きもあろうが、実際には各地でさまざまな呼び名が使われた。昆虫の場合にはただ、全国区になったものが少ないということだろう。 それでも歴史に名を借りた呼称があったということは忘れたくないし、紙の上だけでもいいから残しておきたい。昆虫の方言ファンにとってはありがたい採集品となる。   カジワラ、サネモリはともかく、「白髪太郎」ははるかに有名だと思っていた。所によっては「白髪太夫」とも呼ぶが、たいした差はない。どちらも白くて長い毛を生やしたクスサンの幼虫を指す。白とはいいながら実際にはいくらかみどりがかった毛をふわふわさせながら、のそのそ、もそもそと前に進む。 見るからに毛虫である。いやいや、じつに立派な毛虫だ。となれば警戒されていいのだが、人間に害をなす毒はない。
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同じように誤解されやすいのが、「クマケムシ」と称されるヒトリガの幼虫だ。白髪太郎とちがって茶色の毛だから、なおさら毒虫だとみられやすい。しかも道路をせかせかと歩くところをよく見つかるから、悪者感が高まるのだろう。毒もないのに、まさにお気の毒な虫ではある。 白髪太郎ことクスサンの幼虫は、「栗毛虫」の別名も持つ。これまた明解で、クリの木に多い虫だと想像がつく。ところがクスサンは「楠蚕」「樟蚕」と書くから、クスノキに由来することもわかる。     では、実際によく見るのはどんな樹木かというとクヌギやコナラなどであり、クスノキでぼくは見たことがない。クスノキで多いのはアオスジアゲハの幼虫だ。 図鑑によれば、クスサンの幼虫がえさとする食樹の範囲はかなり広い。だから土地によって利用する木も異なっていいのだが、できれば一度ぐらい、本家本元のクスノキで見たいと思っている。   クスサンの幼虫にはよほど、「太郎」名が似合うとみえる。地域によっては、「シナンタロウ」「スナンタロウ」と呼んだようだ。 「シナン」という音の響きから想像すると、「信濃の」が語源だろう。そう思って調べると江戸時代には、天気の良い夏の日に信濃(長野県)の方に出る大きな雲を「信濃太郎」と言っていたようだと分かった。その先ははっきりしないが、あのわさわさした感じのクスサンの長い毛を雲に見立てて、「信濃太郎」の呼び名を与えたのだろうか。「スナンタロウ」はそれの変形かと思う。 |
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もっとも、これまた所変わればの話になるが、「シナンタロウ」すなわちイラガの別称であるという土地もある。ニホンゴはだから、ムズカシイ。イラガは代表的な毒虫、要注意の蛾だ。ここではあくまでもクスサンの幼虫としての「シナンタロウ」であることをお忘れなく。 毒もないのに、その外見でなにかと損をしている白髪太郎さんことクスサンだが、じつは長いこと、ひとの役に立ってきた。それを忘れては、失礼というものだ。   どう役立ったのか。それを話す前に、どうやって利用するかを説明せねばなるまい。 太郎さんに限らぬが、蛾の多くは、くちから糸を吐く。太郎さんはからだが大きいから、糸になる源の絹糸腺もデカいのであろう。道を歩いているのを踏んづけたり、からだを思いきり引っ張って、ブチッとちぎる。するとその体内に、中華料理で使うはるさめのような絹糸腺が見つかる。それをつかんで酢水につけ、そののち、ぐいっと引く。するとあれまあ、見事なほどに細く長い糸に変身してくれる。昔の人たちはそれを、テグス(糸)と呼んだ。 そう。クスサン改めテグスはそうやって、新たな役目を果たすことになったのだ。それを残酷と呼ぶなら呼べばいい。だが、「お蚕さん」と最上級の呼称を贈るカイコガの幼虫だって、その糸をわがものにするために、億・兆単位の殺生をば繰り返してきたのである。それに比べれば、テグスにされた太郎さんの数はたかが知れている。テグスはその後ナイロンに代わったが、蚕の絹糸とりの歴史は、いまなお続いている。   ――とまあ、いかにも知ったようなことを記したが、自分で試したことはない。道端で息絶えた太郎さんでも見つければ、腑分けをしてはるさめをちょうだいしたいと思うのだが、そのチャンスはなかなか訪れない。かといって、見る機会の減った太郎さんの仲間をわざわざあやめるなんて……あな、オソロシイ。というので、いまだにまさに、無駄な知識でしかない。     というところでまた思い出したのが、温暖化との関係だ。クスサンはどちらかといえば南方系の蛾なのだが、地球が暖かくなるにつれてどんどん北上し、10年ほど前からは北海道でも見られるようになった。 未知の生きものが目につくのは怖いことだ。とくに北海道ではアライグマが激増して、恐れられている。そこまでの害獣と比較してはクスサンがかわいそうだが、突如として現れた大きな蛾を見て道民が面くらうシーンは想像に難くない。   そうそう。釣りつながりの蛾ということでは、スカシバガの仲間も無視できない。その名は知らずとも、ハチのように黄と黒のストライプ模様を持つ蛾、ブドウ園で害虫扱いされている虫とでもいえば、ある程度の人々にはわかっていただけるだろう。 釣り餌を買いにいって「ぶどう虫」なる文字を目にしたら、それこそがブドウスカシバの幼虫さんだ。ブドウやエビヅルの枝に侵入して食い荒らすということから、農家には嫌われる。ところが釣り餌としては高価なもので、幾ばくかのお金を支払った以上は、わらしべ長者のおはなしのように、立派な魚にかえてやりたい。それでこそ浮かぶ瀬もあろうというものだ。 使えるとなれば毒虫さえも利用しようとするのがニンゲンのさがである。もうひとつの「シナンタロウ」として紹介したイラガは、「スズメノショウベンタゴ」と俗称される硬くて丸い繭をこしらえる。タナゴの釣り人は、この繭の中におさまる終齢幼虫の毛を抜き、頭を切って、どろどろした中身を針にからめとって餌にする。いやはや、スゴい知恵ではある。 げに恐ろしきは、まっこと、ニンゲンである。
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写真 上から順番に ・左:ニガウリ。最近は沖縄方言「ゴーヤー」で通用する ・右:山菜として人気の高いコゴミ(コゴメ)。標準和名はクサソテツなのだが…… ・左:クワガタムシの俗称は「カジワラ」。しかし、全国で通用するわけではない ・右:カブトムシを「サイカチ」と呼ぶところがあれば、クワガタムシと同じで「カジワラ」と呼ぶ地域もあるようだ ・左:平敦盛にちなんだアツモリソウ。悲しいことに生息地は激減している ・右:アツモリウオ。美しい! でも、すこし派手すぎない? ・いかにも毛虫、たしかに毛虫のクスサン幼虫。初めて見たら、ぎょっとするかもね ・左:ふ化したばかりのクスサン幼虫。「これからどんどん大きくなるんだ」 ・右:通り名「クマケムシ」は外見で損をする。毒はないとされているのだけど ・毒虫代表といってもいいイラガの幼虫。地域によってはこれを「シナンタロウ」と呼んだようだ ・正面から見たクスサン。その表情から何を読み取ればいいのか ・左:ぼろぼろになったクスサン。生まれて産んで、子孫を残すことだけに専念する ・右:散歩の途中で見かけるクスサンの繭。でも、以前に比べると減っているように感じるね ・イラガの繭。俗称「スズメノショウベンタゴ」の「タゴ」は「担桶」のことで、昔の人々は水やふん尿を入れて天秤棒でかついだ  
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